ものづくりの街で愛される、昭和12年創業の「おでん」の名店



世界で活躍するバイクや自動車、有名ミュージシャンが愛用するピアノやキーボード。日本を代表する「もの」を生み出した世界企業が本社を置く「浜松市」。多くのガイドに「名物」として記載されているとおり、街を歩くと、餃子やうなぎの看板をあちこちに見ることができます。

そんな浜松市の飲⾷店街で、意識しないと通り過ぎてしまう位の店構えの居酒屋「稲作」。年季の入った扉を引くと、懐かしい空間が拡がり、醤油とかつお出汁の温かな香りにやさしく包まれます。


稲作外観

昭和12年創業 長い時間をかけて作られた稲作の味


初代店主の耕作さんがおでんと茶めしのお店を始めたのは昭和12年。途中、戦争のためお店を閉じていた時期もありましたが、昭和24年にはまた、お店は再開されました。

当時のおでんの味について二代目で現在店主の正夫さんに聞くと、「子どもだったからね。お店のおでんを食べるなんて贅沢だと、食べさせてもらえなかったんだよ。だからあまり知らないの」と笑いながら答えてくれました。

正夫さんがお店を手伝い始めたのは昭和37年、25歳の時。その頃は初代店主の耕作さん、その奥さまで正夫さんのお母さま、弟さんの4人でお店を切り盛りしていたそう。「最初はもう、買い物やら雑用ばっかりやっていたよ」と正夫さん。

昭和45年、正夫さんは今の女将さん、天竜出身の里子さんとお見合いの後、結婚。女将さんにはその時、同じ日に、違う人からお見合いの話があって、そのお見合いの相手がどちらも正夫さんだったのだそう。「だから、これはもう、運命の人に違いないと確信したのよ。そんな場面になったら、誰だってそう思うでしょ」と女将さんは楽しそうに笑います。

現在は息子の啓史さんが2人の間を縫うように、忙しくお店の中を走り回っていて、頼もしい存在のようです。


大根は厚めに皮をむくことでやわらかくなるという

大根は厚めに皮をむくことでやわらかくなるという


味見をする女将さんの顔は真剣そのもの

味見をする女将さんの顔は真剣そのもの


「大根の顔をみて、おでんをはじめる時期を決めるのよ」


「静岡県でおでんというと、静岡おでんが思いつくかもしれないけど、うちのは関東煮なの」という女将さんのことばどおり、おでんは醤油味の滋味あふれる味つけ。

その秘密をきくと「かつお節でとった出汁とお醤油以外は何も入れてないのよ」とあっさり教えてくれました。ただしかつお節は注文のたびに業者さんに削ってもらっている焼津のもの。あとは、おでん種からしみでる味がおでんを決めるといいます。

女将さんのおすすめの一つ、こんにゃくは浜松で200年こんにゃくを作り続けている「萬屋蒟蒻店」のもので、今は地元の小学校の給食くらいしか商品を出していないという貴重なもの。こんにゃくの業者さんがこのこんにゃくを食べにくることもあるとか。「小さく細くなってくると、出汁がしみてきた合図なのよ」と女将さん。

また、「申し訳ないけど、1人ひとつまで」と注文の制限がある大根も、太さや硬さ、味にこだわって仕入れているそうで、地元「三方原」産を使うことが多いと言います。よい大根が見つからなくて、何年か前には、東京まで1本500円の大根をトラックで買いに行ったことがあったとも。

そのこだわりは「毎年、大根の顔をみて、おでんをはじめる時期を決めるのよ」というほどで、とにかく、稲作のおでんの素材へのこだわりは並々ならないもののようです。稲作のおでんに合う大根が手にはいらないうちはおでんを始めず、稲作でおでんが食べられるのは、10月頃から春先までです。


8つの具材が入った袋は、女将さん考案のオリジナル


もう一つの女将さんのおすすめはお店オリジナルの袋。キャベツ、うずらの玉子、人参、インゲン、若竹、しいたけ、かまぼこ、しらたきがしっかりとした油揚げに詰められて、かんぴょうで巻いて結んでいます。


袋の中身

小さな袋の中に入るたくさんの具材


以前は地元の業者さんからもち巾着やロールキャベツを仕入れていたのですが、手に入らなくなってしまったので、女将さんが急遽、考えたのだそう。8つの具材がバランスよく入っていて、さまざまな食感も楽しめるのに、味に一体感があり、ひとつのおでん種として成立しています。

使われている油揚げも、地元での仕入れ。しっかりしたものでないと破けてしまうというだけあって、少し厚めですが、具材の風味の邪魔をせず、繊細で柔らかな味です。

また、袋は味がしみるまでは、鍋の中で浮いてきてしまって、中身が飛び出してしまいます。そのため、女将さんは話をしながらも、他の具材の間に挟みながら丁寧に、壊れないようにやさしく面倒をみていました。


袋


がんもどき

がんもどき


大根

大根


練りもの

練りもの


こんにゃく:手前が煮込み後、奥が煮込む前

こんにゃく:手前が煮込み後、奥が煮込む前


「一番おいしいのは家庭でつくるおでんなのよ」


女将さんはよくお客さまから、おいしいおでんの作り方を聞かれると言います。

「でもね、うちが出すおでんは、手間さえかければ、誰だってできる」と女将さん。「それに、家庭でなら、家族が好きなものを入れて、好きな味にできるから、一番おいしくできる」とも。「おかあさん」と呼ばれることも多いという女将さんは満面の笑顔でそう教えてくれました。

新型コロナウイルスの影響で、一時は稲作でも来客数が減ったそうですが、「お店がなくなると困る」と、常連さんが少人数で、何度もきてくれて、それが嬉しかったとご主人。そして今ではまた、一度に来店するお客さんの数も増えてきていて、連日、予約でいっぱいだと言います。


最後にご主人と女将さんで、写真を撮影させていただきました。「手を組んだことなんてないわ」と女将さんが話す横で、笑顔を作ってくださるご主人。その姿がとてもチャーミングで、運命の出会いとはきっとこういうことなのかと、笑顔になってしまうのでした。


2代目店主の山内正夫さんと女将の里子さん

2代目店主の山内正夫さんと女将の里子さん

出汁

出汁:焼津のかつお節

味つけ

味つけ:特選醤油・薄口醤油


おすすめの種もの:袋、がんもどき、大根、練りもの、こんにゃく

お店の基本情報
店名 稲作
住所 〒430-0944 静岡県浜松市中央区田町329−9
TEL 053-455-1739
取材月 2022年11月